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行く川のながれは絶えずして

私も「死の自己決定権」は、おっしゃるように、「個としてのワタシ」の選択の範囲でしかものを見ていない、人は関係性の中で生きているんだ、だから関係性の中で気持ちも意思も揺らぐんだ、「自分」という曖昧なものもその関係性の中に不確定に存在しているんだ、ということがラチ外に置かれているような気がします。

「BBCの司会者が番組で“慈悲殺”を告白」 コメント欄

当該記事の論旨にも、コメントの文脈にも直接の関係がないのですが、いつも読ませていただいているspitzibaraさんのブログで脳みそに火花が出ました。自分が事物を見るときに、また自分がこの世をいっとき生きる上で、核心だと常々思っていることに接触してスパークしたのです。たまにこういうことがある。「エヴァンゲリオン」の綾波の長大なモノローグで、「わたしはこれまでの時間と他の人たちとのつながりによって、わたしになったもの」という言葉にビビビとなったのも同じ感じ。「わたし」が「わたし」になったのも、過去完了じゃなくて現在進行形。死ぬまで途中経過。

ブログを「食うべき詩」に改題するにあたって書いた文章の中で、こんなことを書いていたのを憶えている。

人は人と交わってこそ人になる。猿に育てられ猿の群れで生涯を終える人がいたとして、それはわたしたちとはずいぶんと違う人間に見えるだろう、たぶん。自己というものも、自己以外の他の自己である他者との交わりの中で自己に「なっていく」のだろう。他者の存在がなければ自己のありようはない。人間は自己のみで立つことはできない。
(中略)
細胞は生成死滅を繰り返して肉体はどんどん別物化し、他の人の精神に感応しながらわたしの精神の形もまた変化していく。「わたしらしく」などと思うそばからわたしは「わたしらしく」なくなっていく。
食うべき詩(2)

成長とはつまり絶え間ない変化であり、人間が社会的動物である限りその変化は他者との交わりの中でもたらされる。「カピタル」という集団(社会)を描くことを通じて登場人物たちの成長が描かれている。また、彼ら・彼女らの成長が集団のありようを刻々と規定していくことが、小さな集団であるからこそより鮮明に描かれている。人がエキセントリックになったり神経症を患うのも、人間が社会の一員として生きていかざるを得ず、他者との交わりの中で喜びや悲しみ、連帯感や疎外感を感じざるを得ないことに起因する。それがやむを得ないこと、そしてそれから逃げられるものではないことも「カピタル」は示している。そして登場人物に、象徴的な「持ち場」「役割」を与える(見つけさせる)ことで、他者と共に生きる道についても示しているように感じた。
食うべき詩(3)


つい最近、鴨長明の「方丈記」をあらためて読んでみて、「無常」とか「もののあはれ」ということが、学校で習ったときに感じたネガティヴなイメージじゃなくて、なんというかニュートラルに感じられるようになった。失ったり、変わったりすること、それをあきらめたりすることが、寂しさや侘しさは残るにしても、その寂しさや侘しさを感じる自分は確固としてあるのだと思うと、必ずしもネガティヴなマイナスなことじゃない。絶えず輪郭がブレて、不確かで不安な自分。傷口はヒリヒリしても、それは生きているということ。

なんか上手く書けない。コメントをもらっても的確な受け答えはできそうもない。だから、コメント欄は塞いでおきます。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
(中略)
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

方丈記 鴨長明

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