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ボタンの掛け違い

「死の自己決定権」について書きはじめてから、コメント欄で色々なご意見を寄せていただきました。また、自ブログで反応していただいた方々もいらっしゃいます。それぞれがそれぞれの考えを持つのは当然です。以前書いたように、わたしはこの件について議論を闘わせるつもりは初めからありません。わたしを直接名指しして反発・批判の連続記事が書かれているのですが、やはり、その意見そのものに反批判を行なうつもりはありません。ただ、わたしの見るところ、どうもボタンの掛け違いがあるように思えてなりません。これはとても残念なことです。これまで自分の中で少しずつ育まれてきた「共感」を思うと、放置すれば後で後悔することが目に見えています。できることなら誤解は解きたい。その一心で、批判されているいくつかの点について簡単に見解を述べてみたいと思います。

その前にちょっと前置き
■ブログでのやりとりを何年間か積み重ねた結果、わたしは自分の意見や感情を何が何でも理解されたいと誰にも求めなくなりました。誤解や、不本意な理解のされ方があったとしても、それはいたし方ないことです。それは、自分の考えの浅さ、表現の拙さの結果であるし、また、熟読・吟味してみようと思わせるだけの魅力や信頼感が自分に欠けていることの現われと受け止めるようになっています。ですから、できることならこの記事を読んでいただきたいのですが、読むことを強要はしません。ちょっと事情があるのでトラバやコメントでのお知らせもしません。
■先方の新しい記事を読んで、少し気になったのですが、わたしはこの件に限らず、ブログ上の対話の齟齬に関する第三者の仲介を望みません。また、自分自身もどなたに対しても一切の仲介はしないつもりです。第三者の仲介は、当事者同士の行き違いを拡大する結果につながりやすいというのが、自分のこれまでのブログ経験からの教訓です。繫がるも縁、離れるも縁、そのように考えています。わたしの取り越し苦労や勘違いのならいいのですが、もし、どなたかかがお心遣い下さり仲介の労を取ろうとお考えでしたら、そのお気持ちだけ有難く頂戴したいと思います。

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【個人の選択に社会を背負わせることの危険】
ここにも一部誤解があるのですが、誤解が解けたとしてもおそらく意見が違う可能性がある部分でしょう。長くなるので今は触れません。ただ、実際に死を望む患者・それを看取ろうとする近しい人、そして将来の自分や近しい人の死を考える多くの人の想念と、「尊厳死・安楽死」思想を広めようとする社会運動・公権力の思惑、この二つは連関はしているのですがそれぞれ別個に考えていきたいと思っています。

【尊厳死の広義さから生じるちぐはぐな議論と混乱】
【尊厳死の拡大解釈の危険】
わたしが、「尊厳死・安楽死」と並べて書き、今のところそれを区別していないのは、「無知」や「混乱」からではなく、意図的なものです。それは、安楽死協会(現・尊厳死協会)設立者の太田典礼が、組織の改称にあたってこのように言っているからです。

(協会名改称にあたって)消極的安楽死の思想を普及させるためには、『どちらの表現が正しいか誤りか』ではなく、その時その時の内外の情勢を考えて運動に有利な表現を採用すればよいわけであります。今回の改称はあくまで今日の情勢への対応に過ぎません
「安楽死論集第八集によせて」 日本尊厳死協会編
参考 http://www.arsvi.com/w/ot10.htm


そして、今回の誤解でもっとも重大と思うのは緩和ケアに関するものです。わたしは緩和ケアを否定していません。緩和ケアは、尊厳死・安楽死と絡めて、終末期医療に限定して行われるものと考えていないのです。例えば、疼痛そのものと疼痛から来る精神的苦痛の除去・緩和が極めて重要ながん治療では、終末期であっても初期であっても緩和ケアは不可欠なものです。近しい人をがんで亡くした自分の経験からしてもそう考えています。
がん対策基本法では以下のように書かれています。

(がん患者の療養生活の質の維持向上)
第十六条  国及び地方公共団体は、がん患者の状況に応じて疼痛等の緩和を目的とする医療が早期から適切に行われるようにすること、居宅においてがん患者に対しがん医療を提供するための連携協力体制を確保すること、医療従事者に対するがん患者の療養生活の質の維持向上に関する研修の機会を確保することその他のがん患者の療養生活の質の維持向上のために必要な施策を講ずるものとする。
参考 http://law.e-gov.go.jp/announce/H18HO098.html


そして実際のがん治療の現場でも、モルヒネの使用は以前に比べて早い段階から行われるようになりつつあると認識しています。がん以外の病気でも、患者の状態・薬の使用量など、考慮しなくてはならない要素も多く一概には言えないとは思いますが、鎮痛剤、抗鬱剤、モルヒネ等の投薬、場合によっては神経ブロックといった緩和ケアは、治療(患者を治し生かす)の目的でも、末期のQOLの観点でも必要なものであると考えています。

【「終末期患者に正常な判断ができない」という傲慢】
そのように考えていません。米オレゴン州の尊厳死法についての誤解を解こうと少しコメントしたところ、更に誤解が深まってしまったように思います。
オレゴン州尊厳死法は、自殺幇助に関するいくつもの条件があって、それが純粋に理性的な自己選択の結果としての自殺幇助だけを保障する「歯止め」とされています。その条件の中に、「判断力が損なわれている精神病患者や心理的異常状態あるいは鬱状態の患者は、致死的投薬を受ける資格がない」という項目があります。ところが、実際に幇助が行われたケースの中に、この項目に抵触すると疑われるものもあるという研究についての記述をspitzibaraさんのブログで読みました。それどころかこの調査によると、2007年に自殺幇助を受けた46人全員が精神科医や心理学者の評価を受けていないらしい。
参考 オレゴンの自殺幇助4人に1人は鬱病や不安症の可能性
この研究発表が事実だとして。終末期の患者は多少とも心理的異常があるというのなら、この項目はただ「自己選択」という形を整えるだけのためのお題目に過ぎないし、例外的に判断力が損なわれている患者に致死的投薬が行われたのなら、この項目は厳格な「歯止め」として機能していないということ、幇助に当たって患者の精神状態について専門家の診断が行われていないのなら、「歯止め」は有名無実、いずれにしても、法そのもの、あるいは法の運用に問題があると感じました。
アメリカの「安楽死・尊厳死」をめぐる状況については、更に調べていきたいと思います。

【医療者に全ての「悪」を背負わせる欺瞞】
【現場との乖離】
医療者一般を非難するような記述をした覚えがありません。記事やコメントのどの部分から、『安易な「悪者造り」』、『医療者は傲慢で悪だという固定観念』を読み取ったのでしょうか。申し訳ないのですがわたしには全く分りません。

【お金持ちしか十全な医療を受けられない社会での終末医療問題と国民皆保険制度が存在している現行日本を完全なるイコールで結ぶ事の強烈な違和感】
アメリカの状況と日本の状況を、「完全なるイコールで結ぶ」つもりはありません。しかし、日本の医療や福祉が充実・向上の方向に向かっているのかどうか。残念ながらわたしは違うと思っています。その感じ方は一致していると思っていました。

最後に「欺瞞」の語について。この語に強い反発があるように見えました。
最初の記事「死の自己決定権」(1)で取り上げたspitzibaraさんの記述を再度引用してみます。

「それでも生きる」を選択肢として許さない状況で着実に包囲しながら
「死の自己決定権」をいうのはやっぱり欺瞞だと思うし、

そこに働いているのが実は
先日、英国で哲学者が発言したように
「家族や社会の負担になる人は自らの選択によって死んでください」という
社会の都合であり、強い者たちの利益でしかないのに、

あたかも個人の自己選択の尊重であるかのように喧伝されていくことも
欺瞞だと思う。

WA州の安楽死法案11月投票でCM合戦

この文章で、「包囲」したり「喧伝」したりしているというのは、誰を指しているのでしょうか。わたしにはそれが患者や患者に近しい人とは読めません。欺瞞(あざむき、だますこと)というのは、本当の目的を隠し、患者や患者に近しい人の切実な望みや願い、人々の死や苦痛への素朴な恐れに付け入るように、「死の自己決定権」について語る思潮を指しているのだと思います。

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/46662851.html
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