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「死の自己決定権」(1)

「私の病状が重篤になったら、人工呼吸器を外してください」。こう訴えるのはALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者、千葉県勝浦市で暮らす照川貞喜さん(68)。今は呼吸器を付けて生活しているが、病状が悪化して意志疎通ができなくなった時点が自分の死と考え、死を求める要望書をかかりつけの病院に提出したのだ。病院は倫理委員会を設置。1年間にわたって議論が行われ、去年「照川さんの意志を尊重すべき」という画期的な判断を示した。しかし、現行法では呼吸器を外すと医師が自殺幇助罪等に問われる可能性があり、波紋が広がっている。患者が望む「命の選択」を社会はどう受け止めるべきかを考える。

NHKテレビ クローズアップ現代


09年2月2日の「クローズアップ現代」で、「認められるか?患者の望む死」と題して、ALS患者の死を求める要望書についてとりあげていた。

照川さんは病に侵されてから20年。講演を行ったり手記の出版もするなど、「体は不自由でも、心は自由」をモットーに「生きる」ことに積極的だった。しかし、病状は徐々に進み、考え方が変化したという。自力での呼吸が困難となって人工呼吸器をつけ、現在は全く体を動かすことができなくなり、わずかに動くほほの動きを使って文字盤に反応したりパソコンに文字入力することで意思表示を行っている。そして、まぶたが動かせなくって視界が閉じられ、意思表示の手段が無くなったときには、呼吸器を外してほしいと考えるに至った。話し合って要望を受け入れ署名した家族、共感・同意する、あるいは反対する患者仲間の声も紹介されていた。

自分が同じ境遇になったら、自分の家族や親しい人が死を望んだら、いったいどう考えるか。今は考えても考えても答えが出せない。

「自己決定権」という言葉はわたしにとって魅力的だ。「死の自己決定権」なんて、ますます魅力的でちょっと麻薬のように惹かれてしまう。しかし、事実上選択肢が限られていてもその「選択」の結果を「自己責任」と突き放されるのと似て、有形無形のプレッシャーの中に「死の自己決定」がなされるとしたら、それは本当に自己決定なのだろうかという疑問が頭をもたげる。照川さんの親しい患者仲間とその家族が語っていたのもそういった危惧だったと思う。看病・介護にあたる周囲に気兼ねして「死の自己決定」がなされ、社会がそれを一般化して容認するとしたら、生きるという自己決定の権利、つまり生きる権利は十全に守られるのだろうか?更に「医療の社会的コスト」という発想が患者を追い込むとしたら?わたしも難病患者となったら、重篤となったら「死にたい」と思うかもしれない。そう思うことは本当に自分の意思なのか?切実にそう願った後で、やはり生きたいと思うかもしれない。あ?やっぱり分らない。。。

              ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

科学技術とりわけ医療の発達が、わたしたちに「生命倫理」という新しい、そして難しい倫理問題の解決を迫っていると思います。spitzibaraさんのAshley事件から生命倫理を考えるは、こういった問題に関するテーマを提示してくれたり、考えるヒントを与えてくれたりします。とくに「死の自己決定権」に関して言えば、書庫「無益な治療」「尊厳死」は示唆に富む記事が満載です。少し引用・ご紹介させていただきます。

「それでも生きる」を選択肢として許さない状況で着実に包囲しながら
「死の自己決定権」をいうのはやっぱり欺瞞だと思うし、

そこに働いているのが実は
先日、英国で哲学者が発言したように
「家族や社会の負担になる人は自らの選択によって死んでください」という
社会の都合であり、強い者たちの利益でしかないのに、

あたかも個人の自己選択の尊重であるかのように喧伝されていくことも
欺瞞だと思う。

WA州の安楽死法案11月投票でCM合戦


■ALS 難病情報センター ウィキペディア

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/46455118.html
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