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私と【わたし】

今回はいつもの【わたし】ではなく、私が書く。

私は二重人格、だと思う。一応比喩のつもりだが、本当にそうなのか精神疾患の一種なのかは実のところは分らない。他人の精神の内をのぞくことはできないし、それゆえ他人と自分の心の在りようを比べることができないから。

ずいぶん前から私は【わたし】の気配を薄々感じていたが、はっきりとその存在を知ることになったのは、「背教者ユリアヌス」の一節を読んだときのことだった。世慣れた財務官サルスティウスが若き副帝ユリアヌスと初めて対面して独白する。

「人間が、このように純粋に理想を追い求めうるなどと、誰が考えただろうか。なるほど人は哲学を学ぶ。文学を修め、修辞学を研究する。だが、いずれ、そうしたものが、この世の猥雑さのなかで、ねじまげられ、稀釈され、元の形も見えなくなることを知っている。どこかに、そうした現実への諦念を感じている。しかしこの若い副帝は、そうしたことを辛い境遇のなかで知らされながらも、なお、人間本来の夢のような理想に憧れている。(中略)自分が皇帝の虚名のために選ばれたことも、多くの売名だけの野心家たちがガリアに乗りこんだことも、知ったうえで、この人は、なお、人間が、よきことを為しうるし、為さねばならぬ、と信じている。なんという現実離れした夢想であろう。だが、人間が地上に生まれて、ただ一回きりの生をしか生きられないのなら、人間が果たせぬ夢と思い描いたこの美しい夢を、どうして描かずにすますことができるだろう。(中略)この人は普遍の正義をガリアに実現しようと願っている。思えば、ローマの正義を支えているのは、この夢想するただ一人の人間であるのかもしれぬ。なおガリアにローマの普遍の正義は実現されていない。だが、ここに一人の夢想家がいて、その不毛な土地に種となって、落ちようとしているのだ。いつ、それが、豊かな麦となって、大地を覆わぬともかぎらない。(中略)大切なのは、種を腐らさぬことだ。種が播かれることだ。種を世代から世代へ伝えてゆくことだ。たとえ種がただちに麦をみのらさずとも、夢想のなかで種が生きつづけるかぎり、人間は、人間に失望してはならないのだ」
 こうしてサルスティウスはユリアヌスへの終生の忠誠を誓った。彼はユリアヌスの夢想に殉じようと決意したのである。

(辻邦生「背教者ユリアヌス」 中公文庫 初版 中巻P240?242)

ローマやガリアといった設定はこの際関係はない。こんな文章でボロボロ涙がこぼれるとは思いもよらないことだった。計算し、調整し、嘘をつき、うまくやり、世の中はそうしたものだと人にも自分にも言ってきたのに。理想などというものは建前であると思っていたのに。私自身の一回きりしか生きられない生の中にあって、それが日常であったのに。

私にとって本音と建前は逆だったらしい。【わたし】は乱暴なくらいに私の心をかき乱し、その姿を現したが、狼狽しつつも相変わらず私は【わたし】を隠し続けた。世慣れた私としては「普遍の正義」なんて言葉を素面で語るわけには行かない。理想を言う人(それもまぁピンからキリまでいるが)を嘲笑う声に内心耳をふさぎながら私も一緒に笑い続けた。しかし、サルスティウスがユリアヌスに終生の忠誠を誓ったように、誰も知らないところで私は【わたし】に忠誠を誓っているのだ。今のところ【わたし】がはっきり姿を見せているのはブログの中だけだが、しかし主従関係ははっきりしている。私は【わたし】に逆らうことはできない。せいぜい、やりすぎて潰れないように【わたし】に助言することくらいが私の役目だ。

読んでいただいている方には大変失礼な話だが、この場所は、私が【わたし】に思うがままに振舞わせるための場所だ。そのおかげで私は日常に戻れる。【わたし】がよりそっていてくれるので、私は日常を以前より安寧に過ごすことができている。この場所を、【わたし】を、嘲笑されたり、気味が悪いと思われたり、あるいは「理想をあきらめちゃダメだ」などと軽く説教されたりすることもあるかもしれないが、そんなことは私にとってはどうでもいいことだ。

この場所に私が出てくるのはこれが最初で最後だと思います。それでは、みなさん、ごきげんよう。

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/23671697.html
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