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前書きで終わらないようにしたい。。。

「正義考」という書庫を作った。「正義とは何か」、「普遍的正義とはありうるのか」を考えていきたい。

「正義」について思弁的・直感的に、つまり思いつきのまま書くのではなく、「自由」、「人権」、「平等」といった概念が歴史的に形成されてきた過程を見ることや、ネット上での経験も含む日常生活の中で経験・見聞したことを踏まえながら、自分なりにできうる限り客観的な物の見方をしていきたい。もちろん、どこまでいっても主観は主観であることは免れないが、思考する主体が客観的たらんとする意思を持たなければ、思考シミュレーションはいささかの客観性も持ちえない。これは、転載機能についての議論(そこから派生した議論も含めて)の中で、様々な論者の決定的な「スキルの差」を見て取ったという経験から得た教訓だ。自らの「常識」、「実感」を対象化することに思い至ることのできない(ように見える)論者を反面教師にしなければならない。

           ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「普遍的正義」について考えるようになったきっかけは、数年前の知人との会話だった。アフリカの女性性器切除に関して話をしているうちに大論争になった。わたしは、たとえ性器切除が伝統的な習俗であっても、それは女性に対する重大な人権侵害であり、正義に反する行為だと主張した。知人は、万人に共有される普遍的価値や正義などあり得ないと主張する。そして、文化の多様性を尊重するなら、当該文化の外部からどうこう言う問題ではないと言う。

論議(ケンカ)は平行線のまま終わったが、わたしは、男性が女性を家畜ないし動産のように扱うことがそもそも正義に反するし、切除の結果心身に障碍が残るのはもちろん死に至るケースもあることを見れば、個人が集団の文化・習俗を拒絶するのは正当な権利であると思う。そもそも多様である個人を集団の文化・習俗に強制的に従わせること自体が多様性の尊重とは相容れない。現にその習俗の撤廃のために活動している当事者がいて、その思いや願いに共感したり連帯したりするのは、個人のレベルでは多様性の否定ではなくそれを尊重することだと考える。私は家畜ではない、嫌なものは嫌だと言う人を孤立無援にすることが、何故多様性の尊重なのだろう。「私を人間として扱って欲しい」という悲鳴をどう受け止めるか、そこが出発点だ。

※女性性器切除に関してはまた書くかもしれません。
全体のアウトラインを構想しつつ記事をあげていきますが、結局あっちに行ったりこっちに行ったりする可能性は高いと思います。。。

■書庫内記事
正義と多様性

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/39048974.html
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