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食うべき詩(3)

伏流水という記事の冒頭で、地下水脈が合流し泉となって湧き出す様を書いたが、ちょうどそんな風に自分の中でいくつかの思考のルートが合わさって、「個人と社会」といういわば普遍的なテーマにまた戻ってきたような気がする。いくつかのルートといっても、全くバラバラのものではなく連関はしていたのだが、やや機械的に分けてみる。

著作権と表現の自由に関する考察を通じて、また差別に関する議論に触発されて、「日本国憲法」や「基本的人権」について考えたこと。阿部謹也の「世間」への考察を主な手がかりに、日本社会の特殊性や「個人主義」の意味について考えたこと。ブログというツールが、今まで創作や意見表明から遠いところにいた人々も含めて、膨大な「素人」に自己表現と発信の機会(新しい社会参加の機会)を与えることへの積極的評価。「エヴァンゲリオン」の「逃げたらダメだ」と「わたしはこれまでの時間と他の人たちとのつながりによって、わたしになったもの」というセリフ。異文化交流と相互理解は一般的に可能なのか、同時代を生きる人間やその集団に共通の「普遍的価値」はありうるのか、相対主義を徹底したとき「正義」はそれでもそこにあるのかという自問。あとはキーワード的になるが、原初的情動と芸術、文芸(言葉あるいは文字による表現)と他の表現との質的な違い、表現の社会性・政治性をどう考えるか(メッセージは他者の反応・成果を期待した呼びかけなのか、表現主体の祈りあるいは排泄なのか)。

そして、前回の記事で書いたように、わたりとりさんの「カピタル」を読んで、これらの問題意識がつながりを持ってきた。まさに「カピタル」はわたしにとって地表に湧き出た泉だった。もちろん、「カピタル」を読んでも、そこには自分の宿題への答えは書いてはいない。わたしに対して「カピタル」が示したことについて、これもやや機械的になってしまう恐れは承知の上で書いておく。(これは全くわたし個人の読み方であって、作者であるわたりとりさんの企図や他の読者の方々の感想とは関係のないものです。変なことを書いていたら申し訳ないとは思いますが、創作的表現の受容の仕方は受け手の自由だと思うのです)

「カピタル」は、おそらく職業的な小説家ではないと推測される方がブログという場で公開した作品だ。プロではない方が、少なくともわたしの目から見てこれほど素晴らしい水準の作品をブログで発信したこと自体が、小躍りするほど嬉しいできごとだった。プロ・アマという区分がどれほどの意味を持つのか、わたしは常日頃疑問に思っていた。どのような表現・創作の分野でもその区分は、煎じ詰めれば著作物のその時々の貨幣価値を示すことはあっても、著作物または著作者の価値そのものを示してはいないと考える。「カピタル」はその証明の一つだと感じた。しかも、今話題のケータイ小説や韓国ドラマほどではないにせよ、ブロク上で展開される事象や読者の反応がライブな感じで作品に投影されうるという双方向性が感じられたのも非常に興味深かった。書斎や旅館に籠もって他者・社会と隔絶された作者が生んだ物語ではないように思えた。

そして、「カピタル」はわたしにとって人間の成長の物語だった。成長とはつまり絶え間ない変化であり、人間が社会的動物である限りその変化は他者との交わりの中でもたらされる。「カピタル」という集団(社会)を描くことを通じて登場人物たちの成長が描かれている。また、彼ら・彼女らの成長が集団のありようを刻々と規定していくことが、小さな集団であるからこそより鮮明に描かれている。人がエキセントリックになったり神経症を患うのも、人間が社会の一員として生きていかざるを得ず、他者との交わりの中で喜びや悲しみ、連帯感や疎外感を感じざるを得ないことに起因する。それがやむを得ないこと、そしてそれから逃げられるものではないことも「カピタル」は示している。そして登場人物に、象徴的な「持ち場」「役割」を与える(見つけさせる)ことで、他者と共に生きる道についても示しているように感じた。

食うべき詩(1)
をアップしたあと、ゲストブックにわたりとりさんからコメントをいただいた。少しホッとした。お許しをいただいたので全文引用して再録したい。

「食うべき詩」という表現は初めて知りました。啄木がああいう烈な文章を書くとは知らなんだなぁ(笑)
>劣敗者の心を筆にし口にしてわずかに慰めている臆病者
>および自己の神経組織の不健全なことを心に誇る偽患者、ないしはそれらの模倣者等
これは手厳しい表現ですが、私は共感しますね。カピタルを書くときの指針だったので。プラムさんにメールでこういう文章を送ったんですよ。

>昨今の神経症的な(日本の?)小説は好かないという文章を書かれていましたよね。(中略)私も、好かないです。そういう小説の価値を否定はしないが、そういう物語ばかりが「人間」を描いているかのように評されること、もてはやされることを、寂しく思います。少なくとも、それは「豊かな物語」ではない。(中略)私自身が、厄介に神経症的な精神と、それに完全に支配された期間とを持っていますから、そこを表現したいという小説家たち、そういった表現にシンパシーを感じる読者たちの群れが存在することは、実感としてわかります。しかたがないと思う。だが、好かない。そこを乗り越えたものを書きたいと、私は強く願いました

人はその成長の過程の一時期、なんらかの神経症的な、あるいは自己の精神の自家中毒的な状態に陥ることもあるだろう。そのこと自体を否定しても拒否しても仕方は無い。しかし、「そこを乗り越えた」地平を見つけ出さなくては、生きてはいけないのだ。

社会を拒否し、そこから脱出し、他者との関わりを完全に拒絶する?
物乞いになるか?施してくれるのは他者だ。物乞い同士の社会も生まれるだろう。
衣食住の完全な自給をするか。つまり野生化だ。実現可能性はある。しかし、ロビンソン・クルーソーがそうでうあったように「望郷」や「人恋しさ」といった思いがつのるのは、人の世で生まれ育った記憶がある限り不可避だろう。
ならば、他者との関わりの中で、社会の中で、持ち場と役割を見つけていくしかないのだ。社会が生き辛く住みにくいのであれば(常にそうだとわたしは思う)、社会を変えていくこともその人の役割の一つに違いない。

あれれ。3回で終わるはずだったのに、まだ終わらない。。。

食うべき詩(1)
食うべき詩(2)
食うべき詩(3)
食うべき詩(4)

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/37320837.html
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