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「これもまた中立」の返信に代えて

はてダに書いたこれもまた中立に多くのコメントをいただいて、少し戸惑っています。「ショットバー転載」に直接言及することはもう放棄しているつもりでした。あの記事は議論用の記事ではなく、したがって論点もなく、わたしのやりきれない気持ちをつぶやいたようなものです。しかし、せっかくコメントもいただいたので、ちょっと思ったことを書いてみます。ただ、丁々発止やる気満々の記事ではありません。これも「つぶやき」「ためいき」みたいなものです。

「ショットバー転載」議論から降りようと思った理由、直接のきっかけは、阿檀さんのブログでわたしの主張が「無断転載は悪意」とまとめられていたのを見て、どっと徒労感に襲われたからです。いわゆる無断転載に触れたのは、「ヤフー・ブログ回顧」のシリーズで転載問題を考える上でのバックグラウンドを示したときと、仙人さんの「自業自得」論で議論が再燃したときです。両方とも「ショットバー転載」の是非に直接関わる記事ではありません。

転載された4年間通い続けたショットバーが閉店(泣)(06/12/24)に最初につけたわたしのコメントは「相手は血の通った人間ですよ。ブログをはじめて、これほどイヤな体験をしたのは初めてです。」(06/12/25)というものです。この問題に触れた最初の記事転載記事の画像すり替え「事件」に関して(06/12/26)で仙人さんに対してこう書いています。

この記事を転載した意図は、コメントで少し書かれているように「OYAJIさんの温かい人柄が偲ばれる、好感の持てる記事」を紹介したかったということなんでしょうか。意見・感情の対立、緊張関係があるとは考えていなかったのでしょうか。「善意の転載」がらみとは無関係な過去記事、しかも本人写真入りの記事が再転載されて揶揄の対象になったりする事態を全く想定していなかったのでしょうか。sen_nin_kiyamaさん以外でも「転載されたくなければ転載不可にしておけばいい」という意見を目にします。正論です。しかしそのような形式論で、いわば相手のミス・隙を突くことを、一点の曇りも無く公明正大なものだと言い切る自負はあるのでしょうか。少なくともわたしは不快感を持ちました。


次の「ショットバー転載」問題について(07/01/07)では阿檀さんに対してこう問いかけています。

茶化しや罵倒が見られるくらい議論沸騰中に、議論と無関係なくつろいだ写真入りの記事を転載する(無限転載が止まらない状態にする)ことを、転載可として公開しているんだから何も問題は無いと心底から思われますか?記事がわっと増殖したり、写真があちこちに出回る可能性は考えませんでしたか?相手にミスがあったこととミスを利用することは別問題だとわたしは思います。


最近の「悪意の転載」ね。。。分りません(07/03/02)で書いたのは以下のとおりです。

「経歴転載」については年末かお正月の段階で気づきましたが、もちろんこれにも不快感を持ちました。要するに、議論の最中に議論とは無関係な過去記事を意図的に探し出して表に出すという行為に、悪意を感じる、フェアなやり方じゃないと感じる、それが不快だということです。わたしは。写真には不快感を上乗せする効果があったということです。


どうしてこれらの主張から「無断転載だから悪意である」というまとめが引き出されるのでしょう。無断であるとか許諾がどうのとか、そういうことで議論に飛び込んだように見えるでしょうか。わたしは「無断転載だから悪意である」、そのような発言をしたつもりはありません。また、「ショットバー転載」を不快と感じる・悪意を感じる、だから本音を語ってほしいと願ってはいましたが、記事でもコメントでも「悪意」と決め付けて糾弾したこともないつもりです。そして、「不快」という言葉に、「不愉快」、「気に入らない」ということでは収まらない、「悲しみ」のようなものを込めているのも感じて欲しかった。でも、それらのことは自分の文章のまずさの故としてあきらめるしかないと今は思っています。

阿檀さんは「これもまた中立」へのコメントで「ご自身の「不快」をベースに、仙人氏の意図を悪意と決め付けているように見えました。」と書かれていらっしゃいますが、わたしには逆に、阿檀さんは仙人さんへの信頼がベースにあるがゆえに、仙人さんの矛盾だらけの言説を補完・変換しているように見えます。そして、わたしの主張をその補完・変換に見合うように組み替えてしまっているように見えます。人を信頼することは良いことです。わたしも例えば阿檀さんを信頼している。でも、その信頼や好意に引きづられて、書かれていることを書かれているままに読めなくなってしまっては正常な議論にならない。わたしはそう思います。

理由の二つ目は、阿檀さんブログでの仙人さんの「この問題の本質は、単なる私怨と私恩のぶつかり合い」「ちなみにそれ(私恩※筆者注)は「誤字」ではありません。ただ、相手がそう受け取ってくれないので、苦慮しておりますが。。(^^ゞ」という発言を見たことです。自分が恩を施しているのに相手に怨で返された。。。自分と相手(OYAJIさん)との関係を、固定的に正邪・上下・強弱の関係として認識していることがはっきり分りました。この意識は「更正させる」発言の延長線上にあることですが、こういう意識を持っている限り何を言っても無駄だと感じました。対等な立場での議論が成立する余地は、今のままでは無いでしょう。

理由の三つ目は、ずっと引っかかっていたことですが、仙人さんも阿檀さんも、転載行為とその後の画像差し替え行為を切り離して考えることができないようだと判断したことです。一つの事象を経緯から切り離して単独のものとして見るのは間違いです。経緯を見ることが必要です。わたしも「ショットバー転載」に至る経緯を重視します。しかし、過去は現在に影響を及ぼすものですが、未来が現在に影響することはありえない。画像差し替えは「ショットバー転載」という行為にとって一切関係ないものです。転載問題は転載問題、その結果としての差し替え問題は差し替え問題です。(和解のための一括解決は否定しませんが、というより望ましいのですが)これに拘り続ける限り議論に進展はない。お互いに転載をなじり差し替えをなじり、疲れるか飽きるかして止めになってもくすぶり続けるでしょう。

「つぶやき」というには長々と書いてしまった。。。

■追記
解釈は平行線。で、そのさきは? TWO CENTS(straymindさん)

あの写真を転載した人物の行為は、文脈上無関係と思われる時点で、無関係と取られる写真エントリを何の理由も無く転載しただけである。そしてその後十分な説明をしていない。そして転載された側の感情を顧みる事の無い態度を続けていた点で一点の妥当性も無い。それは転載された側から見ると精神的暴力に等しい。それを行為とは何の関係も無い転載機能解釈で正当化しようとしている点で愚劣であると言える。

至極まっとうな見解だと思います。素晴らしい。感激屋のわたしとしては冷静な感想を綴るのが難しい。「きしし!!」とか「きゃははは!!」とか書けないのももどかしい。

元記事 http://blogs.yahoo.co.jp/tonko_hard/29915831.html
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