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「ぼくらの村」大関松三郎

ぼくらの村   大関松三郎ぼくはトラクターにのるスイッチをいれるエンジンが動き出すぼくの体が ブルルン ブルルン ゆすれてトラクターの後から 土が波のようにうねりだすずっと むこうまでむこうの葡萄園のきわまで まっすぐ四すじか五すじのうねをたがやして進んでいくあちらの方からもトラクターが動いてくるのんきな はなうたがきこえる「おーい」とよべば「おーい」とこだまのようなこえがかえってくる野原は 雲雀の...

食うべき詩(4)

中野重治の「歌」は、わたしにとって、いつも無口で手厳しく、しかし目に熱っぽい慈しみを湛えた老教師のような詩だ。歌うなと言われても、わたしは赤ままの花やとんぼの羽根を歌う。風のささやきや女の髪の毛の匂いも。だがしかし、それは高踏を装いその実退嬰的な精神で、いわば精神的小児病のごとく駄々をこねるように歌うのではない。球体の鏡の中で自己愛という飴玉をしゃぶる甘い口で歌うのではない。わたしは「歌」のその精...

食うべき詩(3)

伏流水という記事の冒頭で、地下水脈が合流し泉となって湧き出す様を書いたが、ちょうどそんな風に自分の中でいくつかの思考のルートが合わさって、「個人と社会」といういわば普遍的なテーマにまた戻ってきたような気がする。いくつかのルートといっても、全くバラバラのものではなく連関はしていたのだが、やや機械的に分けてみる。著作権と表現の自由に関する考察を通じて、また差別に関する議論に触発されて、「日本国憲法」や...

食うべき詩(2)

人は人と交わってこそ人になる。猿に育てられ猿の群れで生涯を終える人がいたとして、それはわたしたちとはずいぶんと違う人間に見えるだろう、たぶん。自己というものも、自己以外の他の自己である他者との交わりの中で自己に「なっていく」のだろう。他者の存在がなければ自己のありようはない。人間は自己のみで立つことはできない。わたしは他の人とのふれあいの中でわたしに「なってきた」。そしてこれからも刻々「なっていく...

食うべき詩(1)

再度ブログタイトルを改題することにした。食うべき詩。わたしは、予備知識(ある意味での先入観)なしに作品そのものと向き合いたいと考えるので、文芸論や芸術論に関心を持ったり興味を惹かれたりすることはほとんど無い。そんなわたしが「そこだよ!そこ!」と、激しく共感したのが石川啄木の「食うべき詩」だ。何年か前にこの詩論に触れて、表現や文芸や芸術一般について、自分の考え方とこんなに通底することを"あの"石川啄木が...

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